1990年~2007年 転換期
1990年
⚫︎経営理念「のびのび・いきいき・はつらつ」の実現に向けて、AIP活動をスタート
1993年
⚫︎本社を京都市山科区に移転
1994年
⚫︎会社設立25周年。資本金8,424万円
1997年
⚫︎産・官・学の共同開発にて「超音波身長計」を開発
1998年
⚫︎創業以降初めてのリストラを実施
1998年9月
⚫︎杉山久志が代表取締役社長に就任
1999年
⚫︎会社設立30周年。資本金8,800万円
⚫︎21世紀に向けて、さらなる技術力の強化を行う
2000年
⚫︎品質システム「ISO9001」の認証を受ける
2002年
⚫︎本社を滋賀県草津市に移転
2003年
⚫︎本社・工場を新築・統合し、現在地に移転
創立20周年を機に経営理念「のびのび、いきいき、はつらつ」の実現に向けて、AI(AKATSUKI Identity)活動をスタートしました。
各企業でCI活動が活発におこなわれていた時期で、暁電機製作所も社長の西河のもと、若い社員を中心にAI活動のためのプロジェクトを立ち上げ、その活動の中から「経営理念:仕事はのびのび、眼はいきいき、動きははつらつ」、「ARUNAS」、「ARUNASロゴマーク」、「青、赤2種類の作業服」等が生まれ、今も受け継がれています。
「ARUNAS」を将来は社名にする案もありましたが、ものづくりを大切にする企業として「製作所」は残したいとの思いから社名変更はせず現在に至っています。
大きな試練は1988年にやってきました。社長の西河が網膜剥離で入院し、経営から長期離脱したのです。
まさに突然の出来事で、会社説明会で社内を案内中に目に異変が起こり、病院へ行きそのまま入院。面会も出来ない状態になりました。
そのような中、経営幹部が部門責任者としての自覚と責任感を持ち、ベクトルを合わせて力を集約することで、リーダー不在の不安定な約2年間を乗り切ることが出来たのです。
社長の西河は2回の長期離脱後復帰し、それまで以上に経営幹部に責任と権限を与え、信頼し、より強固な経営体制を構築しました。
残念ながら、第二次平成不況(日本列島総不況)の1997年6月から1999年1月までの20か月間、その最中の1997年に暁電機製作所創立以来初めてのリストラを行うこととなり、社長も西河勝男から杉山久志に交代しました。
その後、短期間で3事業部を再統合し、力を集約することによってこの難局を乗り越えました。
半導体製造装置関連事業が好況時はそれに依存することなく、ODM製品の開発・生産に積極的に取り組みました。
また、リストラによる弊害を体験し、今後同じような事は絶対しない強い意思を固めました。このことで11年後のリーマンショック時には、リストラを行わず人材を確保することを決め、結果、自社商品開発に人材を投入することが成功に繋がりました。
その後、シリコンサイクルに苦しめられながら、徐々に事業をODM事業(受託開発、受託生産)へ集約し、半導体製造装置関連事業から撤退しました。
2008年リーマンショック後、2009年に杉山久志から内藤富雅へ社長交代しました。
各企業でCI活動が活発におこなわれていた時期で、暁電機製作所も社長の西河のもと、若い社員を中心にAI活動のためのプロジェクトを立ち上げ、その活動の中から「経営理念:仕事はのびのび、眼はいきいき、動きははつらつ」、「ARUNAS」、「ARUNASロゴマーク」、「青、赤2種類の作業服」等が生まれ、今も受け継がれています。
「ARUNAS」を将来は社名にする案もありましたが、ものづくりを大切にする企業として「製作所」は残したいとの思いから社名変更はせず現在に至っています。
大きな試練は1988年にやってきました。社長の西河が網膜剥離で入院し、経営から長期離脱したのです。
まさに突然の出来事で、会社説明会で社内を案内中に目に異変が起こり、病院へ行きそのまま入院。面会も出来ない状態になりました。
そのような中、経営幹部が部門責任者としての自覚と責任感を持ち、ベクトルを合わせて力を集約することで、リーダー不在の不安定な約2年間を乗り切ることが出来たのです。
社長の西河は2回の長期離脱後復帰し、それまで以上に経営幹部に責任と権限を与え、信頼し、より強固な経営体制を構築しました。
残念ながら、第二次平成不況(日本列島総不況)の1997年6月から1999年1月までの20か月間、その最中の1997年に暁電機製作所創立以来初めてのリストラを行うこととなり、社長も西河勝男から杉山久志に交代しました。
その後、短期間で3事業部を再統合し、力を集約することによってこの難局を乗り越えました。
半導体製造装置関連事業が好況時はそれに依存することなく、ODM製品の開発・生産に積極的に取り組みました。
また、リストラによる弊害を体験し、今後同じような事は絶対しない強い意思を固めました。このことで11年後のリーマンショック時には、リストラを行わず人材を確保することを決め、結果、自社商品開発に人材を投入することが成功に繋がりました。
その後、シリコンサイクルに苦しめられながら、徐々に事業をODM事業(受託開発、受託生産)へ集約し、半導体製造装置関連事業から撤退しました。
2008年リーマンショック後、2009年に杉山久志から内藤富雅へ社長交代しました。
著者 内藤富雅