1976年~1989年 成長期
1976年
⚫︎半導体製造装置の受託開発生産を開始
1979年
⚫︎会社設立10周年。資本金1,000万円。社員12名
1981年
⚫︎"草津工場を増築。
⚫︎中小ロットOEM製品の開発・生産体制を整える"
1983年
⚫︎"マイコンテクノハウス京都分室を開設
⚫︎現在の組み込み制御技術へとつながる"
1984年
⚫︎"会社設立15周年。社員36名
⚫︎CADシステム導入"
1986年
⚫︎自社商品「健康くらぶ」の開発・生産に着手
1987年
⚫︎"東京営業所を開設
⚫︎関東方面の市場開拓のため、営業活動を強化"
1988年
⚫︎"追分工場開設
⚫︎資本金4,500万円に増資"
1989年
⚫︎"会社設立20周年。社員140名。資本金5,850万円
⚫︎本社を京都リサーチパークに移転
⚫︎青地工場を開設。半導体製造装置の専用工場としてスタート"
それまで営業は社長の西河一人で担当していましたが、新規受注拡大を目指し営業技術部を発足しました。当初は技術部、製造部から各々1名が異動しスタートすることになりました。
営業活動の成果もあり、半導体製造装置の制御ユニットの開発と試作を受注することができました。
3社の相見積の中から当社が受注できた要因は、工場監査に来られたとき、机の上がきれいに整理整頓されていたこと、小さな会社にしては各部責任範囲を明確に体制を整えていたことでした。
マイコンの地位が確立していない時代でしたので、製品のマイコン化についてはお客様も失敗が許されないため、平行してマイコンを搭載しないものも検討されましたが、最終的に暁電機製作所の提案を選んでいただくことができました。
受注金額は開発費100万円、機器費20万円でした。当時はマイコンを搭載しているだけで付加価値があり、この金額を聞いた時は「えらい安いな!」といったイメージでしたが、受注出来たことで、その後大きな利益を生み出すことになりました。
半導体製造装置の制御ユニットを開発して2年ほど経過した頃から量産することになり、これが主力製品の地位を築きました。
半導体製造装置の設備投資の増大により、制御ユニット以外に本体電装、ハーネス製作へと範囲を拡大し、半導体製造装置関連事業として一つの柱となりました。
平行して半導体製造装置関連以外のODM(受託開発、受託生産)製品の開発・生産を積極的に行い、その後のシリコンサイクルと言われた半導体製造装置関連の好不況の波を乗り越えることが出来ました。
1986年には中ロット、ローコスト、高品質化へのサンシャイン計画をスタートして品質保証部を発足し、マイクロコンピュータを応用したシステムの企画、開発、生産を品質
保証体系に基づき社内一貫体制で行う体制構築が出来ました。
これは暁電機製作所の品質に対する見方や考え方、行動に於いて大きなターニングポイントとなりました。主なことは「不良品を出荷することで、人命に関わる大きな事故になることもあり会社の存亡に繋がる」、「工程内で不具合が発生した時は、即工程をストップし原因が明確になるまで再スタートしない」、「納入仕様書の取り交わし、4M変更管理を徹底する」の3点です。
1987年は円高不況の最中で非常に経済情勢が厳しい時代でしたが、関東市場開拓のため、東京営業所を開設。
1989年会社設立20周年に本社を京都リサーチパーク(KRP)へ移転し、経営本部と営業本部を設置。企画開発部を開設し、ODM事業(受託開発、受託生産)、半導体製造装置関連事業、自社商品事業の3本柱の確立を目指しました。
営業活動の成果もあり、半導体製造装置の制御ユニットの開発と試作を受注することができました。
3社の相見積の中から当社が受注できた要因は、工場監査に来られたとき、机の上がきれいに整理整頓されていたこと、小さな会社にしては各部責任範囲を明確に体制を整えていたことでした。
マイコンの地位が確立していない時代でしたので、製品のマイコン化についてはお客様も失敗が許されないため、平行してマイコンを搭載しないものも検討されましたが、最終的に暁電機製作所の提案を選んでいただくことができました。
受注金額は開発費100万円、機器費20万円でした。当時はマイコンを搭載しているだけで付加価値があり、この金額を聞いた時は「えらい安いな!」といったイメージでしたが、受注出来たことで、その後大きな利益を生み出すことになりました。
半導体製造装置の制御ユニットを開発して2年ほど経過した頃から量産することになり、これが主力製品の地位を築きました。
半導体製造装置の設備投資の増大により、制御ユニット以外に本体電装、ハーネス製作へと範囲を拡大し、半導体製造装置関連事業として一つの柱となりました。
平行して半導体製造装置関連以外のODM(受託開発、受託生産)製品の開発・生産を積極的に行い、その後のシリコンサイクルと言われた半導体製造装置関連の好不況の波を乗り越えることが出来ました。
1986年には中ロット、ローコスト、高品質化へのサンシャイン計画をスタートして品質保証部を発足し、マイクロコンピュータを応用したシステムの企画、開発、生産を品質
保証体系に基づき社内一貫体制で行う体制構築が出来ました。
これは暁電機製作所の品質に対する見方や考え方、行動に於いて大きなターニングポイントとなりました。主なことは「不良品を出荷することで、人命に関わる大きな事故になることもあり会社の存亡に繋がる」、「工程内で不具合が発生した時は、即工程をストップし原因が明確になるまで再スタートしない」、「納入仕様書の取り交わし、4M変更管理を徹底する」の3点です。
1987年は円高不況の最中で非常に経済情勢が厳しい時代でしたが、関東市場開拓のため、東京営業所を開設。
1989年会社設立20周年に本社を京都リサーチパーク(KRP)へ移転し、経営本部と営業本部を設置。企画開発部を開設し、ODM事業(受託開発、受託生産)、半導体製造装置関連事業、自社商品事業の3本柱の確立を目指しました。
著者 内藤富雅